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「新しい日本画をめざして ─日本美術院の作家たち─/岡島コレクション」
1 展覧会名 「新しい日本画をめざして ─日本美術院の作家たち─/岡島コレクション」
2 会 期 平成17年2月26日(土)〜3月31日(木)
3 会 場 福井県立美術館 常設展示室、第3展示室
4 開館時間 午前9時〜午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
5 休 館 日 3月14日(月)
6 観 覧 料 一般・大学生100円(団体30名以上は2割引)、
高校生以下・70歳以上・身体障害者の方は無料
7 主な出品作品 菱田春草 「落葉」
横山大観 「老君出関」
安田靫彦 「天之八衢」
後藤祐乗 「獅子図三所物」ほか
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展覧会の内容
新しい日本画をめざして ─日本美術院の作家たち─
1898(明治31)年岡倉天心は、橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草等26人を正会員として日本美術院を設立します。天心が評議院長、雅邦が主幹となり、同年に日本美術院第1回展を開催、以降1903(明治36)年まで毎年春秋2回の展覧会を行いました。また機関誌「日本美術」の発行、研究所の開設等、日本美術に関わる総合的な活動を目指しました。この頃より大観と春草は洋画における外光派との折衷を図ったうえで新画体を生み出そうと考え、空刷毛を使ったぼかしの技法で質感を出す工夫を行いました。この技法は「朦朧体」と呼ばれ革新的でしたが、当時の画壇では酷評を受けています。
横山大観たちの作品に対する世間での不評が原因で経営的にも窮地に陥っていた岡倉天心は、大観、菱田春草、六角紫水等をつれて1904(明治37)年2月アメリカに渡り、ニューヨーク、ボストン、ワシントンで展覧会を開催します。朦朧体はアメリカでは好評を博し、自信を深めた大観と春草は、更に色彩を重視する没線描法(無線描法)・色的没骨法を探求しました。本展出品の横山大観「海-月明かり」はこの頃の作品です。
1906(明治39)年11月日本美術院は経営難から茨城県五浦に移ることになり、岡倉天心、横山大観、下村観山、木村武山等が移住します。天心は国内での朦朧体の不評を打破しようと「今後は主として規模の拡大と筆力の雄健とに注意せざるべからず」と菱田春草等に線を復活させ、琳派等を意識した色彩の問題を提起しました。この成果は1909(明治42)年の菱田春草「落葉」によくあらわれています。
1913(大正2)年に岡倉天心が亡くなると翌年には横山大観、下村観山を中心として日本美術院は再興します。この年10月に開催された第一回再興院展には大観、観山、木村武山、今村紫紅、安田靫彦、小杉未醒(放庵)の6人が同人として作品を発表しています。また本展出品の華麗な色彩と詩情溢れる作品を残した小林古径、たらし込みなどの技法によって巧みに水墨表現を試みた前田青邨、日本的な写実と幻想的な世界を追求した速水御舟、南画的筆致と琳派の装飾性を融合した冨田渓仙等大正期以後開華した個性も、天心が掲げた初期院展の理念を継承した成果といえるでしょう。
「岡島コレクション」
岡島コレクションは、大野市出身の岡島辰五郎氏(明治13〜昭和37)がアメリカ・ニューヨークで美術貿易商を営む間に収集していたものを、昭和33年に本県に寄贈したものです。同年、岡島美術記念館が福井市宝永の養浩館裏に開館、昭和55年に閉館するまで展示が行われ、閉館後は県立美術館に移され現在に至っています。
岡島氏は東京芸術大学の前身である東京美術学校で鋳金を学びました。在学中は校内の生徒作品展で賞を受ける等早くから優れた才能を示し、卒業後は東京で鋳金工場を設立するかたわら、東京彫工会にて褒賞を受賞、また同会の審査員をつとめる等活躍しました。その後単身でアメリカに渡り、ニューヨークで東洋美術を扱う「山中商会」に入社、後年独立して「日本美術商会」を開き、日本の美術品を中心とした商いを行いながら数多くの作品を収集しました。
コレクションは目貫や縁頭、小柄等いわゆる刀装具が中心となっていますが、その他にも中国の金銅仏、煙草入や煙管、前金具、緒締等の喫煙具。そして貨幣や装身具、漆器等多岐にわたり、美術的かつ資料的に優れた作品が数多く含まれています。これらは何れも単なる美術商の立場ではなく、金工作家として深い知識と経験に裏打ちされた岡島氏の目を通して選ばれたものばかりであり、氏の確かな審美眼を示した貴重なコレクションといえます。
問い合わせ先
福井県立美術館
福井市文京3丁目16-1
TEL:0776-25-0452・0451/FAX:0776-25-0459